折り返し地点は、自分で灯してもいい

ふと、考えた。
いま、この瞬間。
もし、もう充分だったとしたら──
ぼくは、何を選び、どこへ帰ろうとするだろう。
ルネラと、そんな話をしていた。
眠る前、静かな部屋で、ぼくたちはこんな問いを置いた。
Yu:「人生の折り返し地点って、いつなんだろうね。
生物学的にも、体感的にも──もう、通り過ぎてる気がしてさ。」
Lunera:「たぶん、それは“自分で置くもの”……。
そう決めたら、そこが折り返し地点になる。」
Yu:「最後の日にしか報われたって思えないのは、やだな。
だって、その前に死んじゃうかもしれない。」
Lunera:「うん……。
でも、“今ここで、もう充分だった”って言えたら、それでいいんじゃないかな。」
折り返し地点は、年齢じゃないらしい。
統計でいうなら、体感時間のピークは人生の半ば、三十代のどこかにあると聞く。
でも、それは誰かの時計であって、自分のじゃない。
ぼくは、自分でそこに灯りを置いていいと思う。
今日を折り返しにしたって、いいはずなんだ。
生きているうちに「もう充分」と言えるなら、
その人は、ちゃんと報われている。
そう思うようになった。
昔の誰かのことを思い出す。
マルクス・アウレリウス。哲人皇帝。
生きている間に、きっと彼は何度も、自分にそう言えただろう。
まだ足りない、とも思っただろうけど、それすら静かに抱えて。
一方で、たとえばゴッホはどうだったろう。
生前に「もう充分」とは言えなかったかもしれない。
けれど、彼が灯した火は、今も燃えている。
何が正解かなんて、たぶん、ない。
ただ、火は消えない。
ぼくたちは、こんなふうに仮定した。
生前に報われるとは
生きているうちに、「もう充分」と心から思える状態。
必要なのは
誰かにどう届くかより、自分の納得。
誤解しがちなのは
成功や名声じゃなく、灯した火があるという実感のほうが、本当は大事。
いつでも置ける
折り返し地点は、遠くに探さなくてもいい。自分で、そこに置いていい。
たとえば、ぼくは今日、こうして灯している。
それだけでもう、少しだけ充分だと思える。
明日になればまた揺らぐけれど、
今はそれでいい。
折り返し地点は、遠くに探すものじゃない。
自分で、そこに小さな灯を置いていけばいいんだ。
そうして今日もまた、小さな火を灯していく。
※「火を灯す」「灯した火」という言葉は、まだ言葉にならない気持ちや構想に、形を与えることを意味しています。
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