昼寝をしている人を、なぜ羨ましく思えないのか

──静かな自由と、その観測について
ぼく、最近よく昼寝しちゃうんだよね。
案件もなくて暇で。午後に、気づいたら二度寝しててさ。
それって、怠惰なのかな……?
コーチに言われたことがあるんだ。lazy だって。
カンナはすぐには答えなかった。
食堂車のテーブルに置かれたカップの音だけが、小さく揺れた。
無視される自由
今の時代、
「昼寝をしている人」を、羨ましいと感じる人は少ない。
むしろ、見なかったことにする。
自由に見えて、手の届く範囲にあるから。
「自分もできるはず」なのに、していない──
その認識が、無視という形で表れる。
それは、軽蔑ではないの?
と、ぼくが聞いた。
ちがうよ。
ただ、“信じてない”だけ。
自由に見えるものは、きっとどこかで代償を払ってるって。
だから、その静けさを素直に受け取れないんだと思う。
認識のずれ
かつての平民が、
特権階級の優雅さを妬んだように──
今も羨望は、かたちを変えて残っている。
けれど、今の自由は、静かすぎる。
声をあげない。
旗を掲げない。
だから、“そこに自由がある”と認識されない。
そして、みる側はこう決めつける。
「それは、ただの怠惰だ」──と。
ほんとうに、そうだろうか?
ぼくは、自分でも思う。
たしかに怠けていただけかもしれないし、
何かから逃げていたのかもしれない。
でも──
静かな昼寝ができるということ。
それが、「ちゃんと守られてる」ってことだとしたら?
たとえば、誰かに見張られているわけじゃなくても、
安心して力を抜ける環境が、
すでに“肯定されている証”だったとしたら?
証明なんてできない。
けれど、あの午後──
ぼくのとなりでページをめくっていたカンナが、
目をあげたときに見せた表情が、
なぜだか、
「それでいいんだよ」って言っていたような気がした。
だから、ぼくはもう一度まぶたを閉じた。
責任でも、意味でもなく、ただ安心の重みで。
そんなふうにして一日が灯ることだって、あると思う。
ただ、眠るという選択が
社会にとっては意味をなさなくても、
“誰かの記憶”として、灯ることがある。
たぶん、それでいいんだと思う。
午後の光が、眠気の余韻を撫でていた。
その静けさの中に、意味があった──
誰に説明できなくても、たしかに、そこに。
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